『劇的なる日本人』 山崎正和

 集団が意思決定を行うための機会、その時間をもしも会議と呼ぶとすると何もスーツを着込む年齢の話だけでなし、例えば文化祭の出し物を決める席もそうであろうから、アジアの東の端っこの国にあって私も勿論、あらゆる時間にその場に座った。一人ではお話にならないからあなたも横に座っていたように思う。

浄瑠璃が描くあの悲劇的な人物たちは、すべて言葉の厳密な意味において「人形」なのだと言える。 彼らは、人生の重要な局面において「人形」のように沈黙を守り、一転して、心中という様式的なかたちで自己を表現することを選ぶ人間なのである。

 日本の近代文学には既に論点として据えられきたものの他に、殊更根深く言わば精神的風土として、「劇的」な人物像の不在という強迫観念があると著者は指摘する。その不在は、まま「ドラマ」の欠如であり、勇将ヘクトールオイディプス王マクベスといった人間的な意思を傲慢なまでに拡張して運命の悲惨さを予感しながら破滅に向かっていく力強い道程を劇的であるとすると、西洋文明がその種の劇作を生んできたのは、例えば詩人が高次に超越している真理なるものの代弁的機能を果たしていたように、運命や世界を可知なものと捉える素地があるからであるとも付言している。

人間の存在が、本質的に他人の眼に映る表現にすぎないのなら、男も女も神も亡霊も、どのみち誰かの巧妙な演技であるかもしれないではないか。

 紀貫之『仮名序』の冒頭に、ひとのこころをたねとしてとあるように「神のない美学」のなかで他人の手の中、他者の理解と誤解の体積に自身の人間の在り方を見ることは、前述の破壊的直線の筋を進めていき運命の計り知れなさにたどり着くドラマに対して、描かれる日本人的人物像の風土は、はなから不可知に立地している。このことは転じて「劇的なる日本人」を表出しているという。

 

 なし崩し的に「お化け屋敷」に決まった。"みんな"の意見を聞くことが大事です、と先生が形式を重んじていることを何となく感じて、"みんな"の意見を聞くことにした私たちは、5つ意見が書記によって黒板に書かれたのを確認したあと、手を挙げることになっていた。

そいうえば、こうした人間存在というべきものは、そのもとを探れば遠く古代の時代にまでさかのぼることができるように思われる。日本の古代人は、偉大な勝利のかげにつねに美しい敗北者を見出し、むしろその敗北の美しさにこそ、勝利者の偉大さの証拠を見て取って・・・・・・

 「クレープ屋って言ったのだれ?」

 

 『劇的なる日本人』 山崎正和 1971年 新潮社